屯田郷土資料館

屯田郷土資料館は、屯田地区の歴史をたずね、現在を考え、屯田の明日への創造に役立てようとするものです。
屯田地区の皆さんの愛郷の心によって建設されたもので、復元された屯田兵屋をはじめ貴重な郷土資料が展示されています。

開館時間
午後1時〜午後4時
休館日
毎週月曜日及び年末年始
住所
札幌市北区屯田5条6丁目3番21号
(屯田地区センター併設)
電話番号
011-772-1811(代表)
交通
地下鉄麻布駅下車、中央バス屯田6-12行き
(麻01、01)屯田5-7下車
駐車場
完備
入館料
無料
先人の苦労をしのび、歴史・文化に触れ、未来を見つめる。

入植以前の屯田

遠い昔から一度も斧を入れたことのない、うっそうとした原始林でした。ニレ、ハンノキ、センノキ、イタヤ、ヤチダモといった、天までとどくような大木が、生いしげっていました。人間の背よりも高い熊笹がしげり、昼でも暗い林のなかでは、動物の気配がします。 エゾシカやキタキツネ、オオカミ、ノウサギなどが、身をひそめているのです。
大きなヒグマも、それらの林のなかを、歩きまわっていました。

屯田兵制度

屯田兵は、日本国内の安定と外国から日本を守り、開拓することを目的に誕生しました。私たちの屯田に、はじめて屯田兵がやってきた約20年前、日本では300年続いた徳川幕府が滅び明治維新がおこりましたが、 各地で内乱が起き、北海道も混乱していました。
その混乱のなかでロシアとのあいだに領土の争いがありました。学者や政治家たちは“北海道を守るべし” と、農民兼務の軍人制度の屯田兵制度の考えをすすめました。
はじめのうち、 屯田兵の資格は士族に限られていました。

篠路兵村を拓く

屯田はむかしは「篠路兵村」と呼ばれました。はじめて篠路兵村の土地を踏んだのは、明治22年(1889)7月15日、相模丸(税1,885トン) で来た1056人、7つの県から集まった屯田兵とその家族です。琴似、山鼻、新琴似につぐ、札幌で4番目の屯田兵で、札幌最後の屯田兵となりました。
屯田兵の一日の生活は、起床が夏(4〜9月)は午前4時。冬 (10月〜翌年3月)は午前5時と決められ、ラッパの音を合図に行われ訓練や開拓は、夏が朝6時から夕方6時。冬は午後5時まででした。
苦労しながら、土地を切り開き、畑を作り、開拓をしつづけたのです。

篠路兵村のくらし

屯田兵には住宅、寝具、家具、農耕具、種子などが与えられ、食糧としては、入植してから 3年間は扶助米、塩菜料がありました。篠路兵村では、入植して一週間は炊きだしの食糧。このあと一ヶ月は白米、あとは玄米が配られました。屯田兵と家族が、入植して3年の間に死亡したときは、埋葬料も払われました。しかし、屯田兵は、開拓や農業にはまったく経験のない士族で、南国出身者が多かったため生活にはたいへん苦労しました。

屯田兵屋

明治22年、現在の屯田6条2丁目382番地に屯田兵として入植した佐々木高熊氏一家 (山口県出身)が明治37年頃まで生活をしていたものです。後に佐藤健次郎氏がこれを譲り受け、昭和3年〜22年まで住宅として、その後納屋として使用していました。
現在屯田地区において唯一現存する建造物で、屯田開基百年にあたり、地域関係者の奉仕作業により復元完成いたしました。

出征

西南戦争での戦いで屯田兵は初めて銃を手にしました。その後の日清戦争では篠路兵村からも招集されましたが、東京で終戦を向かえました。明治37年の日露戦争には兵村から多くの若者が出征しました。

篠路兵村のくらし

屯田兵には住宅、寝具、家具、農耕具、種子などが与えられ、食糧としては、入植してから 3年間は扶助米、塩菜料がありました。篠路兵村では、入植して一週間は炊きだしの食糧。このあと一ヶ月は白米、あとは玄米が配られました。屯田兵と家族が、入植して3年の間に死亡したときは、埋葬料も払われました。しかし、屯田兵は、開拓や農業にはまったく経験のない士族で、南国出身者が多かったため生活にはたいへん苦労しました。

屯田兵屋

明治22年、現在の屯田6条2丁目382番地に屯田兵として入植した佐々木高熊氏一家 (山口県出身)が明治37年頃まで生活をしていたものです。後に佐藤健次郎氏がこれを譲り受け、昭和3年〜22年まで住宅として、その後納屋として使用していました。
現在屯田地区において唯一現存する建造物で、屯田開基百年にあたり、地域関係者の奉仕作業により復元完成いたしました。

出征

西南戦争での戦いで屯田兵は初めて銃を手にしました。その後の日清戦争では篠路兵村からも招集されましたが、東京で終戦を向かえました。明治37年の日露戦争には兵村から多くの若者が出征しました。

水とのたたかい

屯田の長い歴史のなかで、忘れることができないのは水とのたたかいです。札幌扇状地のはし、海抜2〜5mほどの低い土地である屯田では、 雪がとけて石狩川の水がはんらんすると、決まって水害にみまわれました。秋の長雨のあとも、排水溝がない昔は水害に苦しみました。特に、明治31年、9月10日の大水害では、村のほとんどが水につかり、明治37年7月再び大水害のこの二度の大きな水魔により、家や食糧・畑も失った屯田兵たちは、ふるさとに帰ったり、他の職業を見つけたりしなくてはなりませんでした。こうして入植時は220戸1056人いた人口も、明治40年ごろには72戸555人に減りました。

生活・文化

「かげろうのぼる江南の野にこもる生活・文化ぬくもりわらを育て早苗は伸る双葉は開く学びの庭には花咲ききそう」 昭和30年に江南小学校から屯田小学校に改称された屯田小学校の校歌です。
屯田小学校は、屯田に屯田兵とその家族220戸がやってきたあくる年、明治23年に長永簡易小学校としてはじまりました。3学級、130人の学校でした。校長は兵村出身の大橋怒一先生。木造平家建ての校舎でしたが、校舎も校具も陸軍のものでした。早く学校を卒業して、 お家の手伝いをするための、3年間だけの学校でした。

映像

見たいコースを屯田兵クイズ、写真で見る屯田のあゆみの中からそれぞれ選びます。クイズは屯田兵の家族や開拓地のくらしについて出題され、各コース5問づつ3つのヒントの中から答え、各コース終了後、成績も発表されます。